(トクン、トクン、トクン)
 普段より早めの鼓動が室内の暗闇に鳴り響く。
 静まり返るその漆黒の室内からゆっくりと這い上がる「恐怖」という名の怪物は、私の胸にベッタリと纏わりついて、なかなか離れてくれない。
 家族と居間にいたつい先ほどの楽しげで和やかな雰囲気は、風船がしぼむように急速に縮こまってしまった。
 自分の部屋に戻って、電気を消して、布団にもぐってからだったか…急速に緊張が高まった。
 テレビで見た怖い話。
 お兄ちゃんと違って私はあの手の話にとても弱い。
 何で一緒に見てしまったのだろう、今更ながらとても後悔する…。
 そう、その時までは本当に、ほんのちょっとした怖いもの見たさだった。
 テレビに映し出される青みがかった暗い病室の中央。
 そこに病院で使われる真っ白なベッドがあって、私と同じくらいか、それよりも少し年上の女の子が静かな寝息を立てて眠っていた。
 そこへ忍び寄る青白い怪奇は、ゆっくりと…ゆったりと…彼女の元へと近付いていく。
 そんなことに気付くはずもなく静かに眠るお姫様。
 もしこれがハッピーエンドで終わるお話だったなら、
 少女の危険を偶然にも察知した誰かが、正義のヒーロー気取りできっと助けに来てくれるはずなのに――
 とうとうベッド脇にまでたどり着いてしまった…。
 ほんの一瞬の間――無い目で少女を見つめる。
 ゾッとするような妖気を放ちながら、顔の前にダラリと垂らした後ろ髪を掻き分けその姿をさらけ出し☆Σ△‰○Ю…
!!? 
 (ダメ…!もう思い出しちゃダメなのに…。)
 思い出すだけでますます身が竦んで眠れなくなってしまう。
 だから私は気付かれないように、呼吸を静かにゆっくりと大きめに変える。
 少しばかり音を立ててしまうけれど、掛け布団を顔の半分くらいまで引っ張りあげる。
 自分の存在を闇へと偽装させ、溶け込もうと努力する。決して気付かれてはいけない…。
 そう、気付かれてしまったら次は自分の番なのだから
 ………
 ……
 
一体どれだけの時間が過ぎたのか…
 1分か10分か20分か…それとも、もう1時間くらい経過しているのだろうか…。
 時計の針が刻む音だけが耳に届く暗闇の室内で、時間を確認する術はない。
 決してできない訳ではないけれど、もし時計を見ようとすれば顔を右に動かさなければならず、右を向いたが最後、きっと「あれ」と目が合ってしまう。
 もしそんなことが起こってしまったら、私は恐怖に殺される…
私は必死に全身を石のように硬直させ「者」ではなく「物」になる。
 今もまさに顔のすぐ右側、ベッドの端から顔を覗かせているかもしれない「あれ」に気付かれないように…
ドアの向こうからは、まだ居間に家族がいるのだろうか…はっきりとは聞き取れないぐらいの声が聞こえ、その中には談笑しているのだろう笑い声も聞 こえてくる。
でもここは、そんな外の世界とは切り離された、闇と静寂と恐怖に彩られた世界。
 私は決してその存在を認識されてはならない「物」。
 その中で、動くことも、声を上げることも許されない。
「あれ」に気付かれたら最後
「あれ」に気付かれてはいけない…
「あれ」に気付かれてはいけない…
「あれ」に気付かれてはいけない…
考えるだけで胸はとてつもなく息苦しい。這い上がる恐怖の魔物にゆっくりと柔らかく噛み千切られる感覚を覚える。
いつになったら解放されるのか、今だ「眠り」という名の天使は私の元に舞い降りては来ない。
 窓の外で降り始めた雨がその激しさを増し、ザーという雨音のオーケストラと、ポツ…ポツ…という窓の桟に滴る雫の主旋律。
 なんとも不気味さを煽る音楽。
 窓の外の音楽に中てられてかは定かではないけれど、より一層の恐怖が私の内部から染み出して形を成していくのがわかる。
 その形は四角でも円でもなく…この部屋そのもの…
 ………
 ……
 
 またしばらく時間が経った…
 (どうしよう、少しトイレに行きたくなってきた)
 わずかに覚える尿意。
いつしか家族の声は途切れてなくなり、外からはテレビの音と思われる声だけが聞こえるようになっていた。
 そして、そんな外の音に耳を傾けてしまっ た私の耳に、こちらに向かってくると思しき足音が聞こえる。
 音を殺しながらゆっくりと…まるで私にその存在を気取られぬようにとこちらへ向かって くる。
私の胸中で「恐怖」という名の波が瞬く間にたけ狂い、ピンと貼られた糸を次々に限界まで引き伸ばしていく。
 (カチャリ…)
やはり、とうとう来てしまった…。
 急激に高まりつつある胸の鼓動を強引に押さえ、呼吸は変わらず大きくゆっくり、視線は変わらず中空を見上げたまま意識だけそちらへずらしていく。 目が合ったら…その姿を見てしまったら、私という人間はこの世から消え失せる
。理由さえもわからず、原因さえも知られず…
漆黒の闇が、恐怖の魔物が、私の体を細かく切り刻み、食らい尽くすに違いない。
 ベッドに足音が近付き私の視界に捉えられた……その顔は―!!!
「…お兄ちゃん」
 安堵の温かさが急激に溢れかえり、心の中で何かがパチンッと弾ける。
 「何だ、まだ起きてたのか?」
ちょっと乱暴な言葉ではあったけど今の私にとっては関係などない。
 ただ「お兄ちゃんだった」という事実だけで、今まで感じていた感情が目の周りに集まり始め、目頭を熱くし頬を流れ落ちる。
「……ぅ゛
「早く寝ろ、明日学校遅刻しちまうぞ」
「……ぅぅ」
「どうした? 変な声出して、お腹でも痛いのか?」
「……ぅぅぅぅ」
 次々に溢れ出てくる涙のせいで、困り果てているお兄ちゃんの言葉に返事を返せない。
「うわぁぁぁぁぁ〜ん」
「うわっ!? 何泣いてんだ? どうしたんだよ」
「ぅっ、ぅぁ、ひっく………ぐすっ」
「どうした? 言ってくれないと、何もできないだろ?」
「ぐすっ……ぅぅ……ドイレ行ぎだい」
「はぁ!? 自分で行けるだろそれぐらい」
「だって…だって…ぅっ…ぅぁぁ…」
「わかった、わかったから。ほら、泣き止めよ」
 意味が全くわからないにもかかわらず、私のお兄ちゃんは普段より優しく接してくれるのだった。
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